カテゴリ:神社仏閣( 153 )

みずのいろ


達谷西光寺 辯天堂(弁天堂)

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白山池

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おまけ

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by rin_pr | 2017-05-31 09:33 | 神社仏閣 | Comments(0)

摂理


達谷西光寺不動堂

また藁葺屋根に展開する自然の摂理とかいうものを撮ってしまった・・・


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by rin_pr | 2017-05-30 11:53 | 神社仏閣 | Comments(0)

磨崖仏


達谷窟毘沙門堂の奥にある磨崖仏(岩面大佛)

「岩大日」の記録から大日如来とする説もあるが、別当達谷西光寺では阿弥陀仏の名号を唱えており、
戦死者追悼(前九年後三年の役の全ての戦死者)の意味からもこの仏を阿弥陀如来とするのが正しいとしている。
(古い石碑に阿弥陀の種字の梵字「キリク」が刻まれているのも証左。)

この毘沙門堂の磨崖仏は「北限」らしい。
1896年(明治29年)、地震により胸から下が崩落した。


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磨崖仏は北海道以外の各地にあり、大分県には特に多いような印象があった。
韓国の慶州(新羅の古い都)では街中で自転車を借りて南山の麓に停め、山の上の磨崖仏を見に行った事がある。
百済王朝終焉の地(扶余)の近隣にも百済仏教伝来の地瑞山には磨崖三尊仏はあるし
石窟とそこに彫られた磨崖仏であるなら、インドや中国などアジアの仏教圏に広く見られる。
ある時期の仏教的情熱なのかも知れない。


by rin_pr | 2017-05-29 10:19 | 神社仏閣 | Comments(0)

征夷将軍の通り道


毛越寺の近く、達谷窟毘沙門堂(たっこくのいわやびしゃもんどう)
別当(管理)は達谷西光寺


寺院ではあるが、神仏習合のなごりとして鳥居がある。

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毘沙門堂は窟(いわや)に押し込まれるように建てられている。

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清水寺(京都)の舞台と同じ懸崖造り。

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寺の縁起として二代目征夷将軍坂上田村麻呂(初代は奈良末期の大伴弟麻呂)との戦が語られる。
征夷将軍とは蝦夷を討伐する意味で太平洋側を北上する軍を率いた。日本海側を進むのは征狄(せいてき)将軍。
(征夷「大」将軍の名称を好んだのは、源頼朝・・・)
この辺りは中華思想の「四夷」(中華の周辺にある野蛮人の概念、東夷・西戎・南蛮・北狄)から来ているらしい。
坂上田村麻呂は蝦夷の長、阿弖流為(アテルイ)を討伐して名を馳せたが、この窟の砦に立て籠もる蝦夷(悪路王、赤頭、高丸、等)も平定していたようだ。

昨日「俘囚」について「まつろわぬ人々」と書いたが、正確には朝廷の支配下の蝦夷を俘囚と言い、隷属度合いの低いものを夷俘(いふ)と言う。
朝廷支配がまったく及ばない人々は「蝦夷」のまま。
領土拡大に伴って現地にいたまま俘囚となったものと戦時捕虜となって別の土地(遠く九州まで)に強制移住させられたもののどちらも俘囚と言った。
社会的身分は「俘囚」として区別されていたが被支配民族として差別されていたかと言えば、それほどでもなく
特に強制移住させられた俘囚は生活基盤が確立するまで租税免除、俘囚料として国司から食糧支給されていた。
奥州に残った俘囚も基本的に租税免除、但し特産品の朝貢を行っていた。税は「国民」が納めるものと考えれば、その通りなのかも知れない。
つまり「俘囚」は奥州の蝦夷と言う朝廷を構成するメインの民族では無いが朝廷の傘の下にいる外側の人々と言う事になる、、、か。
中華思想の大和版と考えると形が見えてくるように思う。

ただ、後に出雲(813年頃)、下総(875年)、上総(883年)など待遇改善を求めた俘囚による騒乱が発生するようになり朝廷は奥州送還政策を行うようになる。
おそらく朝廷は緩やかな同化(教化)政策をとったであろうが(生活習慣はほぼ同化した?)、結局はあまり上手くいかなかったのだろう。

by rin_pr | 2017-05-28 11:30 | 神社仏閣 | Comments(0)

夢の跡


毛越寺 嘉祥寺・講堂跡

度重なる火事と兵火で荒廃してしまった。現在は礎石を残すのみ。

本来の毛越寺は、浄土庭園の南側に南大門(跡)があり、その軸線上北側に池をはさんで金堂円隆寺(跡)、
左右に講堂(跡)、嘉祥寺(跡)、経楼(跡)、鐘楼(跡)、常行堂、法華堂(跡)・・・等が並ぶ。
当時は中尊寺をしのぐ規模だったらしい。(「堂塔四十余宇、禅房五百余宇」「吾朝無双」 / 吾妻鏡)(Wikipedia)
明治から大正にかけて、池の南側に本堂(現在の本堂は1989年再建)、一関城から大手門を移築し山門としている。


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この地は律令制の時代になって陸奥国や出羽国が設置されたが
俘囚(ふしゅう、まつろわぬ人々)と呼ばれた蝦夷系先住民との交易を抜きにしては語れない。
東北から蝦夷地には縄文人の直接の子孫かどうかは分からないが(非弥生人)、縄文文化、擦文文化に属する稲作をしない人々が住んでいた。

11世紀頃、陸奥国には安倍氏、出羽国には清原氏という豪族がいた。いずれも俘囚の流れを汲む東北地方先住民系の豪族だった。
俘囚(あるいは中央に屈した俘囚の長)とは言っても中央政府寄りで(中央政府が直接支配するより屈した俘囚を使った方が支配しやすい)
言葉の通じない蝦夷系先住民と中央政府の通訳的な役割を務め、交易の最前線に位置していた。生活習慣は中央同様。

奥州藤原氏は安倍氏・清原氏と血縁関係にあり、前九年・後三年の役で両氏が滅んだあと、俘囚の長の役割を引き継いだ可能性はある。
但し、中央政府と敵対するのではなく中央政府の地方支配体制を受け入れ、任命された国司にこの地方の有力者として協力する立場を取った。

平泉には、この近くに藤原氏以前の廃寺跡(長者ヶ原廃寺跡、国見山廃寺跡)もあり、いにしえ人の仏国土(浄土)に寄せる想いの強さを感じる。
by rin_pr | 2017-05-27 11:35 | 神社仏閣 | Comments(0)

テツガク


毛越寺 開山堂前の松・・・
ぐるぐる?
??


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by rin_pr | 2017-05-26 09:59 | 神社仏閣 | Comments(0)

毛越寺本堂


火事で失われた寺があり規模はだいぶ縮小してしまったが
毛越寺の方が中尊寺よりコンパクトにまとまっているように思う。
その印象は浄土庭園を囲んで寺が配置されている事にもよるのだろうか。


本尊 薬師如来(平安時代作)、脇士 日光菩薩・月光菩薩

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本堂

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by rin_pr | 2017-05-25 09:52 | 神社仏閣 | Comments(0)

極楽浄土を希求する


毛越寺 常行堂(じょうぎょうどう)
本尊 宝冠阿弥陀如来、脇士 四菩薩、奥殿 摩多羅神


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by rin_pr | 2017-05-24 10:02 | 神社仏閣 | Comments(0)

天国の浜辺


天台宗 別格本山 毛越寺(もうつうじ)

浄土庭園の洲浜

この庭園を造った人たちは、浄土にも浜辺があると想像したのだろうか・・・
英語の説明文では洲浜の事を " Beach " と表記していたので
何だろう、、、想像が一気にプーケット島あたりのビーチで仏さんが、、、いや何でもないデス。

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築山
海岸に迫る岩山を表現

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出島と池中立石(ちちゅうたていし)
荒磯の風情を表現

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中島と池の周り
昔の地図を見ると、この向こうにも池があったらしい

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by rin_pr | 2017-05-23 10:27 | 神社仏閣 | Comments(2)

新緑


旧覆堂

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かんざん亭

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モミ
天然記念物
目通周 約5.10m、目通径 約1.60m、樹高 約20m
推定樹齢 350~400年

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弁財天堂

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弁慶堂

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階段状の樹の根

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by rin_pr | 2017-05-22 09:46 | 神社仏閣 | Comments(0)