カテゴリ:モノ( 124 )

裏側


掲示板の裏側
その昔、教室の黒板に落書きした感触を思い出した。

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by rin_pr | 2017-07-24 09:18 | モノ | Comments(0)

さざなみ


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by rin_pr | 2017-07-22 09:16 | モノ | Comments(0)

集中と拡散


さて、集中と見るか拡散と見るか。
その時の気分次第かな・・・

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by rin_pr | 2017-07-21 09:22 | モノ | Comments(0)

働く機械


新橋再開発の一環だろうか。

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by rin_pr | 2017-07-16 09:45 | モノ | Comments(0)


石なのか岩なのか。
日本庭園に配された石は無ければ無いで何か違う、、、と思う。
まだその世界観はヨクワカラナイ。


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by rin_pr | 2017-07-02 09:57 | モノ | Comments(0)

けんけんぱ!


けんけんぱ!
・・・ちょっと違うか;;


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by rin_pr | 2017-07-01 10:24 | モノ | Comments(0)

波板


剥れゆく行く記憶

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プラスチックの波板屋根を通った光が人がいた頃の記憶を留める

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by rin_pr | 2017-02-22 09:41 | モノ | Comments(0)


ある町のバス停で

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by rin_pr | 2017-02-06 09:41 | モノ | Comments(0)

オランダ橋


平戸は室町時代に始まった南蛮貿易の拠点の一つだったが、1641年(寛永18年)オランダ商館が長崎の出島へ移転し平戸での南蛮貿易は終焉を迎えた。

「オランダ橋」は別称で、「幸橋」と言う。 元は木の橋だったが1702年(元禄15年)に石橋に架け替えられた。
その時、かつてオランダ商館が築造した石造倉庫の技法を使用したといわれ、それが「オランダ橋」の由来になっている、、、らしい。

現役の橋で市役所への近道になっている。(徒歩のみ)

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オランダ船の錨

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平戸市教育委員会資料から

大型の錨は1952年(昭和27年)に川内港から引き揚げられたもので、松浦資料博物館に展示されているオランダ船錨(県指定文化財)ともよく似ており、
海外貿易で栄えた平戸を実証する資料である。小型の錨は1956(昭和31年)に平戸瀬戸で引き揚げられたものである。
なお一緒に展示している方柱状の石材は、平戸の最南端に位置する宮の浦港から引き揚げられた、中国船の碇石である。
by rin_pr | 2017-01-20 10:45 | モノ | Comments(0)

唐津城


夢のまた夢、、、ほぼ悪夢。

唐津城天守閣

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唐津城の丘の上から。

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織田信長と直接会見したルイス・フロイスの残した書簡によれば
豊臣秀吉の朝鮮出兵(文禄、慶長の役 / 壬辰倭乱)は信長の構想に基づいている、と言う事になるのだろうか。
未だになぜこんな無謀な戦をしたのかは推測の域を出ない。

兵站線(ロジスティックス)が長くなれば戦争の維持は難しい。
釜山城の跡も見たが、城と言うよりは砦に近く、落とすのは比較的簡単だったと思う。
朝鮮側であれば食料、物資の調達の道を絶って逃げるのも戦略ではある。
文禄の役は1592年5月24日~ 1593年7月、慶長の役は1597年1月~1598年12月で、それぞれ1年間。
(余談だが、朝鮮半島で唐辛子を倭辛子と言うのは、この戦争時に秀吉軍が凍傷予防の為に履物の中に入れて種をばら撒いたからではないか?)

秀吉が死んで兵を引いた時、前線基地だった名護屋城はどう見えたのだろう。

Wikipediaによれば
慶長7年(1602年)、寺沢広高は唐津城の築城を開始した。
この際に名護屋城を解体し、その遺材を使用した。
これ以降に、二度と城が利用できないように、要となる石垣の四隅を切り崩すなどの作業が行われたが、その理由と時期については明確でない。

地元の人に話を伺うと「名護屋城なんて無い方が良かったんでしょう」と。

by rin_pr | 2017-01-18 10:50 | モノ | Comments(0)