武蔵坊弁慶


関山 中尊寺、弁慶堂 (平泉)

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武蔵坊弁慶が実在の人物かどうかは分からない。
個人としては架空だが、何らかの叡山の僧兵に関連した人物あるいはグループが源義経に加担した可能性はある。
平清盛は叡山や南都焼打など旧来の宗教勢力とは対立があったので、平家滅亡には種々の感情があった、、、、か?
園城寺または叡山の僧、常陸坊海尊であればいくつかの古い物語(源平盛衰記、義経記、平家物語)で言及されているが弁慶は描かれていない。
もっとも、弁慶ブームが起きたのは江戸時代なので常陸坊海尊が元になっているか?(「弁慶の家系図」も流行したらしい。)

奥州へ逃亡する際、歌舞伎では修験者一行に偽装しているが演出だけなのだろうか。
逃亡のルートを検討すると北陸道経由なのは確かだろうし、その先に修験道の聖地出羽三山がある。
都の近くであれば熊野も修験道の聖地であり、余談になるが神仏習合は修験道(山岳信仰)に起因する。
義経は最初の逃亡先として吉野へ行ったのは間違いない。吉野と熊野は地理的に近い。
修験道の歴史や残されているものを見る限り、修験者ネットワークの様なものは存在していたと考えられる。
義経一行はこのネットワークに乗った?
人の往来がいつから不自由になったのかの検証は必要だと思う。不自由だからこそ、信仰の旅は貴重。

日本海側は古代より交易の先進地域だった。
航続距離の短い古代の船にとって能登半島は大きな障壁だったが、船は山を越えたらしい。
瀬戸内海は平清盛が音戸の瀬戸を開削するまで海上交易のメインにはなり得なかった。多島海は比較的大きな船にとって難所でもある。
飛鳥や平城京、平安京へは主に日本海側から交易品が入って来たと言う。
奥州からも日本海航路で金、銅、アイヌとの交易品が運ばれた。陸路と海路のどちらが安全に交易品を運べたのか?の問題もある。

義経物語的には金を商っていた金売吉次(かねうりきちじ)が藤原秀衡に会えるよう仲介した話になっているが
こちらは下総国まで同行してから別行動を取った事になっている。陸奥国で再会。
彼の存在は弁慶同様、伝説の域を出ない。奥州の金を扱う商人はいたとは思うが。

酒田で日本海に注ぐ最上川中流の立川辺りに「弁慶の褌岩」(弁慶が褌を干した)があるのはご愛敬。
また、「語ってはならぬ」なので詳しくは書かないが、出羽三山湯殿山の御神体は自身の宗教的禁忌に触れない限り一見の価値はあると思う。
by rin_pr | 2017-05-18 11:31 | 神社仏閣 | Comments(0)
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