夢の跡


毛越寺 嘉祥寺・講堂跡

度重なる火事と兵火で荒廃してしまった。現在は礎石を残すのみ。

本来の毛越寺は、浄土庭園の南側に南大門(跡)があり、その軸線上北側に池をはさんで金堂円隆寺(跡)、
左右に講堂(跡)、嘉祥寺(跡)、経楼(跡)、鐘楼(跡)、常行堂、法華堂(跡)・・・等が並ぶ。
当時は中尊寺をしのぐ規模だったらしい。(「堂塔四十余宇、禅房五百余宇」「吾朝無双」 / 吾妻鏡)(Wikipedia)
明治から大正にかけて、池の南側に本堂(現在の本堂は1989年再建)、一関城から大手門を移築し山門としている。


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この地は律令制の時代になって陸奥国や出羽国が設置されたが
俘囚(ふしゅう、まつろわぬ人々)と呼ばれた蝦夷系先住民との交易を抜きにしては語れない。
東北から蝦夷地には縄文人の直接の子孫かどうかは分からないが(非弥生人)、縄文文化、擦文文化に属する稲作をしない人々が住んでいた。

11世紀頃、陸奥国には安倍氏、出羽国には清原氏という豪族がいた。いずれも俘囚の流れを汲む東北地方先住民系の豪族だった。
俘囚(あるいは中央に屈した俘囚の長)とは言っても中央政府寄りで(中央政府が直接支配するより屈した俘囚を使った方が支配しやすい)
言葉の通じない蝦夷系先住民と中央政府の通訳的な役割を務め、交易の最前線に位置していた。生活習慣は中央同様。

奥州藤原氏は安倍氏・清原氏と血縁関係にあり、前九年・後三年の役で両氏が滅んだあと、俘囚の長の役割を引き継いだ可能性はある。
但し、中央政府と敵対するのではなく中央政府の地方支配体制を受け入れ、任命された国司にこの地方の有力者として協力する立場を取った。

平泉には、この近くに藤原氏以前の廃寺跡(長者ヶ原廃寺跡、国見山廃寺跡)もあり、いにしえ人の仏国土(浄土)に寄せる想いの強さを感じる。
# by rin_pr | 2017-05-27 11:35 | 神社仏閣 | Comments(0)